本文中のテキスト、画像の著作権は執筆者に帰属しています。 テキスト、画像の複製、無断転載を固く禁じます。
2005年3月号(Vol.44)掲載 (2022年8月29日リニューアル掲載)
壁と僕とベルリンと | 松浦 孝久 |
西ベルリン西郊の境界地帯で、古い壁を壊して新しい金網に建て替える工事が行われている。見逃してはならぬとばかりに僕は出かけてきた。現場の数十メートル手前まで来ると、重機のグウォーンという音が響いてくる。付近を走る車の音くらいしか聞こえないこの場所には不似合いなほどの大音量だ。境界線際にある木の茂みに入り込んで工事を見ていると、向こうからカメラを持った警備兵が現われ僕の顔写真を撮ろうとする。そんなことにはめげず、工事の進展を見届けようと翌日もしつこく現場を訪れると、例によってカメラの兵士が来た。互いに写真を撮ろうと意地になってレンズを向け合っているうちに、ある人物が西ベルリン側から僕に近寄って来た。敵なのか味方なのか……。
この現場は閑静な街道の側道沿いにある。側道といっても走るためではなく、休憩するために車を止める駐車スペースとでも言うべき場所だ。売店やトイレがあるわけでもなし、周辺に娯楽施設もない。わざわざ立ち寄る人なんかめったにいない場所だ。そこへ彼女は白い車(フォルクスワーゲン・ビートル)に乗って入って来た。僕の背後20メートルほどの所に車を止めたその女はジーンズ姿。30歳前後だろうか。ドアを閉めるとまっすぐ僕の方に向かって歩いて来る。
「ハァーイ。」
なんと話しかけてきた。
「あなたは日本人ね?」。
しかも英語だ。
「学生さん?」
と畳みかけてくる。
東独の警備兵とにらみ合っているところへ現われた西ベルリン市民だったことで、僕もさしたる疑問を抱かず、彼女の問いかけに合わせるように話をした。
「あそこにカメラを持った警備兵がいるでしょ。あの人が僕の写真を撮ろうとしてるんですよ。」
「あら、それなら私みたいな美人を撮らなくちゃねぇ。」
逆に僕の方から
「ところであなたは、ここへ何をしに来たのですか?」
と聞くと、
「仕事の帰りにちょっと寄っただけよ」
と女は答えた。
あとから考えると絶対に怪しい。僕の身元チェックをするために来たとしか思えない。妙齢の女性がわざわざ寄る所じゃないし、まして僕みたいな東洋人に興味を持って話しかけることなんて考えられないし……。とすると、彼女は東側のスパイだったのか。僕にもっとしたたかさがあれば、「何のために僕の人定をするんですか?」「仕事の帰り、ってずいぶん早い時間ですねぇ」と突っ込んだり、彼女の車の中をのぞいて無線機などがないか見たり、ナンバーを控えたり、さらに彼女の顔写真を撮るなどしてプレッシャーをかけたはずだ。彼女が車で立ち去ってからだった。「もしかしてスパイ?」と感じ始めたのは。
スパイといっても色んな種類がある。映画や小説に出てくるように、トレンチコートに身を包んだ秘密諜報員が、アタッシェケースに偽造パスポートを忍ばせて敵国に侵入するばかりではない。西ベルリン市民として普通に生活しながら、西ベルリンで得られる情報を東独の秘密警察(=国家保安省)に提供する者も多いと聞く。もちろん彼らは東独秘密警察の息がかかった協力者である。彼女がこうした類の情報提供者だとしたら、「壁の工事現場にしつこく通う怪しいアジア人がいるから、どんな人物か探れ」という指令があったに違いない。あるいは「少なくとも(壁の破壊を企てるなど)敵対的な人物でないかどうか確認せよ」といった指示だったのかも知れない。
こうした情報提供者と、スパイの元締めである東独の秘密警察とは普通に電話や無線機で連絡を取り合うほか、真偽は定かではないが、東独の国営ラジオで深夜に流される数字を羅列した暗号で西側にいるスパイに活動指令が与えられるとも言われる。女が去ってからこんな話を思い出した僕は、帰り道には気をつけた。後をつけている人物がいないか、ときどき後ろを振り返った。自宅近くでは、いつも降りるバス停のひとつ手前で下車したうえ、回り道までして帰宅、久しぶりに緊張感に包まれた1日となった。
執筆/画像提供 松浦 孝久 |