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2002年2月号(Vol.12)掲載 (2019年6月5日リニューアル掲載)
壁と僕とベルリンと | 松浦 孝久 |
壁アーチストらの創作現場を後にすると、間もなく、あの聖トーマス教会が現れた。幸いなことに教会は壁に対して背中を向けた状態で立っている。表側にまわってみると、かなり大きな広場になっていて、教会の立派さが強調される。マリアンネ広場という名前もついている。
教会裏の壁際には僕の大好きな物見台がある。上って左手を見ると、今まで歩いてきたベタニエン通りがカーブしている様子がよく見える。壁にはアーチストたちが描いたペイントが鮮やかだ。壁の裏は約50メートルの幅がある無人地帯。さらに向こうの東ベルリン側には、こちらと同じようにアパートが並んでいる。中ほどには白い監視塔が立つ。
このタイプの監視塔は白いコンクリート製で、見たところ2メートル四方の広さだ。柱の部分は四角い〝輪〟の形をした部品を積み上げて作られている。この〝輪〟を積み上げる個数を調節することで高さを変えられる。その柱の上に監視室が乗っている。監視室の上にはサーチライト。警備兵は地上のドアから入り、はしごを上って上部の監視室に入る。中にある設備としては連絡用の電話くらいだろうか。まともな暖房やトイレはなさそうだ。「こりゃ、冬場はきついぞ」。そういえば別の場所では、監視塔の横で用を足す警備兵を見たこともあった。
物見台から右手の方を見ると、やはり白い監視塔があって、その後方には街並みや列車が見える。オストバーンホフ(東駅)という、通勤電車ばかりでなく長距離列車も発着するターミナル駅の近くだ。壁が湾曲しているため、ここから壁の裏が見えるのだが、そこに2人の警備兵が歩きながら警戒している。僕はびっくりして思わずつぶやいた。「おいおい、壁の真裏なんかで警備していいのか…。もっと東ベルリン寄りにある軍用道路を行き来するのが原則じゃないのか」。警備兵でさえ亡命する恐れがあるためで、当局が警備兵に100%の信頼を置いていない証(あかし)でもある。にもかかわらず随分と西側に近い所にいる警備兵を見たため、ちょっと狐につままれたような感じがする。
壁の裏側は真っ白に塗られている。「人影を見つけやすくするためなんだな」と合点がいく。しかも、その白い塗装がはげて色が黒っぽくなることもあるのだろうか。ご丁寧に白い塗料を重ね塗りした跡が点々と見える。東ベルリンでは、例えば駅舎や住宅なんかの建物が朽ちかけたまま放置されていることも多いというのに、壁にはこれだけの力の入れようだ。改めて恐れ入る。
物見台を降りて進むと、壁により寸断された道路、壁際ぎりぎりに立つアパートと、おなじみの風景が続く。地図によると、やがて境界線は右に直角に折れるのだが、工場か何かの敷地があって「折れ曲がり部分」の壁は残念ながら見ることができない。境界線を求めて路地を迂回すると川にぶつかった。シュプレー川だ。ここから境界線はシュプレー川沿いに続く。川幅は40~50メートルはあろうか。ベルリンを東西に貫いて流れる大きな川だ。川の向こう岸に金網や無人地帯が見える。そして川の中ほどには遺跡とも思える橋脚があり、かつては橋がかかっていたことをうかがわせる。しかし今では東西ベルリンの境界線になっているので、どっちみち橋は不要だ。
厳密にいうと、この地区ではシュプレー川は東ベルリンの領域に属している。たとえ無人地帯が向こう岸にあっても、境界線はこちらの川岸だ。今は橋脚を残すだけの橋は、戦争末期のベルリン攻防戦で破壊され、復興されぬままに時が過ぎ、やがて壁ができてしまったのだろうか。あるいは、壁を作った後に東独が警備に邪魔だからと破壊したのか。「どっちだか分からないけれど、東独にとっては橋があるより、ない方がいいに決まっているじゃないか。少なくとも橋を渡って西ベルリンへ亡命するという選択肢がなくなるからね」。壁を歩き続けていると、東側の考えていることも見えてしまうようで何だか怖い。
執筆/画像提供 松浦 孝久 |