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2001年3月号(Vol.1)掲載 (2018年11月9日リニューアル掲載)
壁と僕とベルリンと | 松浦 孝久 |
僕はその日、地下鉄の出口を出て階段を上り、道路に出た。 「この先にあるはずだぞ。有名なチェックポイント・チャーリー。ベルリンの壁といえばチェックポイント・チャーリーだもんね。あれ、出口を間違えたのかな。 観光客っぽい人たちはたくさんいるけど、それらしいものは見えないな。もう少し歩いてみるか。おや、あの小屋は? 看板がかかってるぞ。えっ、Checkpoint Charlieと書いてあるじゃないか。これが? あの有名な検問所のチェックポイント・チャーリー? "東側への玄関"としてベルリンの歴史に必ず出てくるにしては、なんだか大したことないなー」
これがこれがチェックポイント・チャーリーを見た私の素直な感想だった。
警備の兵士がぞろぞろいて、装甲車なんかもズラリと並んでいるような、もっとインパクトのある場面を期待していた僕は、拍子抜けしてしまった。 「検問所」といっても小屋が立ってるだけで、検問らしきことは何もしていない。 ベルリンが東西に分断され、当時の米ソ冷戦の接点ということは知っていても、この風景はまったく緊張感を欠くものだった。(後で知るところによると)それは当然のことだった。チェックポイント・チャーリーは米英仏の西側連合国側の検問小屋で、実質的には検問作業は行っていなかったのだ。
ベルリンの壁、いきなり失敗か! と思ったのは束の間のことだった。ベルリンの壁とは底知れぬ恐ろしさを持った存在であることを、そのあと僕はすぐに知ることになった。
チェックポイント・チャーリーの向こう側に目をやると、道路を横切るように白い線が引かれていた。これが東西ベルリンの本当の境界線で、その先には遮断機があったり、いかつい軍服を来た兵士が立っていた。
「えっ、ということは、この先にあるのが東ドイツ側の検問所ってことか。あの兵士、双眼鏡でこっちを見てるじゃないか。あそこにはカメラを持ったのもいるぞ。あの白線を越えると写真を撮られるのか、まさか逮捕されるのか。なんだか、物々しい雰囲気だな。ホンモノの検問所はこっちの方か」
「壁に沿って散歩している人が多いな。壁伝いに歩いていれば道に迷うことも ない し、車も通らないから静かだし…。車をとめるちょっとしたスペースもあるし。 ……
あそこ、壁の前に 何か立っているぞ。大きな十字架?
もしかして、こんな街中で亡命者が射殺されたとか…」
1962年8月17日。壁が築かれて約1年後、東ベルリンに住んでいたペー ター・フェヒター(当時19歳) は、西ベルリンに親族がいたため亡命を決意し、職場の同僚と決行した。当時は壁は2メートルほど、これを乗り越えようとした際、警備兵に発見され、銃撃を受けたという。
同僚は無事に西側へ逃れたものの、フェヒターは胸や足に被弾、壁の向こう側に崩れ落ち、倒れた。東側の警備兵は彼を助けることもせず放置したまま。壁のこちら側では多くの市民が、この悲劇的なドラマを目の当たりにしていた。
西ベルリン警察は包帯などを投げ入れたりして、何とか彼を救おうとしたが、結局、フェヒターは動くこともなく、そのまま息絶えた。そして銃撃から50分もたってから、東側の警備兵はフェヒターの遺体を収容した。
東ドイツでは「亡命」は犯罪とされていた。ベルリンの壁では、このような法に名を借りた殺人行為が当たり前のように行われていたのだ。
執筆/画像提供 松浦 孝久 |