2005年6月号(Vol.47)掲載 (2023年8月16日リニューアル掲載)

壁と僕とベルリンと
第40回(最終回)
ベルナウ通りからブランデンブルク門へ!
松浦 孝久

 旅行のガイドブックでも紹介されるようになり、ベルナウ通りは観光客も訪れる人気スポットになっている。それは市中心部から比較的近いからという理由だけではない。一連の壁建設作業、亡命、そして悲劇と、壁にまつわる歴史がここに凝縮されているからだと思う。

これがベルナウ通りだ。
壁際にバス停があったり、犠牲者の墓標があるなど、壁に関する色々な要素が揃っている。

ベルナウ通りの端にある鉄製の物見台。
高さ約8メートルとふつうよりずっとノッポで、東ベルリンがよく見える。
もはや観光地ともいえるほど多くの人が見学に来る。

8メートルの高さのある物見台から東ベルリンを望む。
オレンジ色をした路面電車が走っているが、ここが折り返し地点(終点)になっていて、
電車はぐるりとループ状に回って反対方向に走っていく。

物見台から見た東ベルリン。壁のすぐ裏にいる子供たちは幼稚園児のようだ。
皆で寄り添って壁の方を見ているが、保母さんは壁について何か説明しているのだろうか?

物見台の上で東側に向かって手を振る西ベルリン市民。
壁の向こうに知り合いが来ているわけではないだろうが、無人地帯が狭いので手を振れば互いに見える距離だ。
しかし向こうから手を振ってくれることは殆どない。

壁と無人地帯と監視塔と東ベルリンのアパート。
目の前に東側の人々が住んでいるのに、ここを横切って行くことはできない。これが分断都市の現実だ。


 東独は1961年8月13日未明、壁建設に着手する。まず境界線を有刺鉄線で封鎖、警官らを動員し、市民の越境を阻止するよう見張りに当たらせた。その時、ここベルナウ通りに配置されたコンラート・シューマン(19)は西ベルリン側に亡命するチャンスをうかがっていた。しかし周囲には同僚の警官が目を光らせている。境界線にはまだ柵や壁は築かれておらず、有刺鉄線が束の状態で置かれているだけだ。彼は巡回するフリをして有刺鉄線の所まで行き、他の警官に見つからないようにそれを踏みつけて低くし、飛び越えやすいようにした。そして15日午後4時ごろ、意を決した彼は突然走り出し、持っていた自動小銃を投げ捨てながら、有刺鉄線の束を飛び越え西ベルリン側へ駆け込んだ。その瞬間を西側から捉えた写真は世界中に配信され、壁建設の衝撃を伝えた。

無人地帯にある照明塔。
東ベルリンの中心街でさえ夕方以降は電力節約のため消される道路信号があるというのに、
亡命を阻止するため、無人地帯は一晩中照らされ続ける。東ドイツにとっては壁の維持が最優先なのだ。

無人地帯を見張る東ドイツ国境警備兵。僕のカメラに気づき、おどけて顔を隠す兵士。
他の兵士も笑っているが、そんなんでイザ亡命者を見つけたときに銃撃できるのだろうか?

ベルナウ通りはフランス軍の占領地区。パトロールの途中、車を降りて壁の落書きを撮影する仏軍兵士。

家族で散歩の途中、木製の物見台から東ベルリンを見る市民。
高さが微妙に足りず、枠に足をかけて、もっと高くから向こう側を見ようとしているのが面白い。


 ベルナウ通りを有名にしたのは、境界線沿いに立っていたアパートのすべての窓がセメントで塗り固められ、異様な光景をさらしたことだろう。ちょうど窓のある位置が東西ベルリンの境界線にあたり、窓から西ベルリンへ亡命する者が相次いだため、東ドイツが取った措置だった。
 ここにもドラマがあった。下の階から窓をセメントで封鎖するうちに、上階から西側へ飛び降りて逃げようとする者がいる。その動きを察知した東独の警察は亡命を阻止しようと追ってくる。ある者は5階くらいから飛び降り、路上で待ち構える西ベルリン市民が広げているマットに無事着地、亡命を果たしたが、ジャンプに失敗し転落死する者もいた。こうした犠牲者を悼む墓標が壁際にいくつか立てられている。

ベルナウ通りは市民の〝憩いの場〟と言ってもよい。大人から子供まで、壁沿いを散歩する人が絶えない。

ドイツには犬好きが多い。散歩のとき飼い主は手ぶらであることが殆ど。
つまり、犬の落し物はそのまま、ってことだ。道を歩くときは下に気をつけるべきだ。
アレを踏まずに済むし、もしかしたらお金を拾うかも知れない!?

写真中ほどにある道路標識を見て欲しい。右手の方向にも道路があるかのように看板がある。
壁によって分断され、通行できない道路にも標識を作るのは西ベルリン市当局の意地だ。


 さらにこの通りでは、壁構築後、市民が地下トンネルを掘って西ベルリンに脱出したことでも有名だ。大規模なトンネルは2本。いずれも1960年代前半、壁により離れ離れになった親族や知人を西側に逃すために作られたものだ。西ベルリン側で壁近くの廃屋などを借り、そこを拠点に壁の下を百数十メートル掘り進め、東ベルリンのアパートの物置などに到達する。完成すると、事前に秘密裏に連絡を取り合っていた人たちをトンネルを伝って西側へ逃すのだ。トンネルを掘削すること自体大変な作業だが、同様に難しかったのが周囲に知られないように工事を進めることだった。他の場所のトンネルでは、東側の秘密警察に察知され東側からトンネルを封鎖されてしまったり、また銃撃されて犠牲者が出るという悲惨な結果に終わったケースもあった。

アパートの列は先の方まで普通に続いているように見えるのだが、道路とともに壁により寸断されている。

ベルナウ通りが観光地化しているのは、みやげ物店があることからも分かる。
売っているのはベルリンの絵葉書など普通のみやげ品。あまりお客が入っている様子はない。

ベルナウ通りに面した建物から亡命しようと飛び降りて死亡した犠牲者を悼む墓碑。
無人地帯のスペースを作るため、それらの建物はその後、東独により取り壊された。もちろん住人は強制的に転居させられた。

ベルナウ通りの壁際にあるバス停。厳密な境界線は東屋のすぐ後ろ、壁が立っているところだ。
壁にしろ、西側の建築物にしろ、境界線から数メートル遠ざけて作るのが普通なのだが、ベルナウ通りは例外だ。


 ベルナウ通りを過ぎると壁はベルリンの中心地へと向かう。2つの検問所、そして旧国会議事堂の先へ進むと、いよいよブランデンブルク門だ。ここまで来ると完全に観光地となっているので、1年を通じて世界各国から多くの人が訪れる。門そのものは東ベルリン側にあるので、壁は門の前を通っている。東ドイツもこちら側の観光客に配慮しているのか、ここの壁は低めに作ってあって、写真を撮ったりするのに都合がよい。門の前では集会やデモなどのイベントが行われることも多い。警察でさえ、門周辺の警備には騎馬警官を投入するといったしゃれたことをする。「ブランデンブルク門を思う気持ち自体は、本当は西も東も市民も役所も違いはないんだろうな」。分断してはいても、この門こそがベルリンの象徴であり市民の心のよりどころであることは間違いない。

ベルナウ通りを離れ、市中心部に向かう途中にある「ショセー通り検問所」。
1台の車が東側から出てきた。「アヒル」の愛称で親しまれる仏製シトロエン車。
東ベルリンを訪問した西ベルリン市民が戻って来たのだろう。

ショセー通り検問所を上から見たところ。本来は一本の道路が普通につながっていたはずであることが分かる。
東ベルリンを訪問した西ベルリン市民が戻って来たのだろう。

検問所で、東ベルリンから来る知人を迎えに来た人たち。
境界の白線上に立っており、目的の人物を見つけたらしく手を振っている。
本人たちは境界線を守っているが、連れてきた犬は無視して東側へ入り込んでいる。
東ベルリンを訪問した西ベルリン市民が戻って来たのだろう。

ショセー通り検問所近くの壁。
土地不足に悩むベルリンであるが、無人地帯だけは無駄とも思えるほど十分に広いスペースを取っている。
亡命阻止にかける東独の意気込みは恐ろしいほどだ。
東ベルリンを訪問した西ベルリン市民が戻って来たのだろう。

ブランデンブルク門近くの境界線。
中央の石碑は、壁ができてから銃撃による最初の犠牲者をまつるもの。
1961年8月24日、西ベルリンへ亡命しようとした24歳の縫製工の青年が、東独警備兵により射殺された。

第2次大戦が終わるまでドイツの国会議事堂だった建物。「ライヒスターク」と呼ばれる。
壁はこの建物の真裏を走っている。

旧議事堂の裏。建物は歴史博物館になっている。
裏の通路は、目の前に壁があるが市民も歩けるスペースだ。

観光客でにぎわうブランデンブルク門。
あらゆる意味で東西ベルリンの象徴であり、ベルリン市民のアイデンティティとしての存在だ。

 

 執筆/画像提供  松浦 孝久
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