本文中のテキスト、画像の著作権は執筆者に帰属しています。 テキスト、画像の複製、無断転載を固く禁じます。
2004年6月号(Vol.37)掲載 (2021年10月12日リニューアル掲載)
壁と僕とベルリンと | 松浦 孝久 |
西ベルリンは東ドイツという〝敵陣営〟の真中にあるため、陸の孤島に例えられることが多い。そして、この西ベルリンをよく見てみると、西ベルリンからさらに東ドイツの中に飛び出している「孤島」があるのだ。行政上は西ベルリンに属しているにもかかわらず、西ベルリン本土からは切り離された形でポツンと東ドイツの中に存在する…。そんな飛び地が何か所かある。いま僕が向かっているシュタインシュトゥッケンも有名な飛び地だ。ベルリン南西部にあって、西ベルリン本土から1キロちょっと離れている。広さは13ヘクタールで住人は約150人。
そもそも東西ベルリンや東ドイツの境界は戦前の行政区分に基づいている。1961年に東独が壁を作った際、この行政区分に沿って作業を行った。飛び地は西ベルリンとして扱われ、周囲に壁が築かれた。困ったのは住人たちだ。食料や生活物資の補給、通勤・通学のためには、西ベルリンと行き来する必要があるが、そのためには飛び地を出て東独領内を通る必要がある。当然のことながら東独側の厳しい検問を受けねばならない。記録によると、子供でもランドセルの中まで開けさせられたという。こうした検問を受けることで往来できたのは、住人のほかには郵便配達の職員であった。この地区を占領していたアメリカは住民を保護する姿勢を強調するため、壁構築後に兵士3人をシュタインシュトゥッケンに常駐させたという。米兵や往診の医師らは軍用ヘリコプターを使った。
米軍に「西ベルリン市民としての自由」を守られているといっても、不便を強いられることには変わりない。しかし、こんな生活も壁ができて11年後の1972年に転換期を迎える。この年、米英仏ソによる「4か国協定」が発効し、西ベルリンをめぐる状況が劇的に向上した。これまで宙ぶらりんだった西ベルリンの地位が国際的に確認され、関連する取り決めにより西ベルリン-西ドイツ間の交通の安全が保障された。それに伴いシュタインシュトゥッケンと西ベルリンを結ぶ長さ1.2キロの連絡路も確保されることになり、6月3日にアスファルト道路が開通したのだ。道幅は約20メートル、両側はベルリンの壁に挟まれている。8月には西ベルリン市長らが、この道路を歩くパフォーマンスを行うことで、飛び地と西ベルリンとの一体性をアピールした。ちなみに、この連絡路の確保は、4か国協定に伴い西ベルリンと東独との間で実施された一連の「領土交換」の一環であった。人が住んでおらず、畑としても使われていない飛び地をやり取りすることなどで、行政や生活上の不都合を解消したものだ。
さて、シュタインシュトゥッケンの現地に入ってみると、静かな住宅街で特に変わったところはない。路線バスも走っている。今では珍しい古い初期型の壁が部分的に残っている。コンクリートの板を積み上げただけの壁だ。また、米軍が常駐していたことを記念して、かつてヘリポートがあった付近に、ヘリの回転翼(ローター)がモニュメントとして飾られてる。また西ベルリン-西ドイツを結ぶ鉄道が通っていることも、ここの特徴だ。線路の部分は壁で遮断できないので、東独側は監視塔を近くに立てたりして厳重に警戒している。
壁に小さな穴が開いていたので覗いてみた。無人地帯が見える。軍用車が停止していて周囲を警戒中だ。軍用車の手前は、亡命者の足跡を発見しやすくするため、土が数センチ程度の幅で帯状にならされている。ふと視線を少し落とすと、この帯状の土の上に派手な色をした物体があるのに気づいた。カメラの望遠レンズを通して見ると、それはペプシコーラの空き缶だった。西ベルリン側から誰かがいたずらで投げ込んだに違いない。赤や青の目立つ缶だし、警備兵も必ず目を光らせる場所なので、ペプシの缶であることには、きっと気づいているだろう。西側の象徴ともいえるペプシコーラの缶を見て彼らが何か感じるのか…。それとも西側の飲み物なんて見たことなくて無関心でいるのか…。僕には知る由もない。
執筆/画像提供 松浦 孝久 |