「絆・ベルリン」便り! 

 ベルリンで結成されたボランティア団体「絆」のみなさんの被災地での活動を綴った、団長福沢さんから届いた日記です。

9月13日(火)

 ベルリンのシェーネフェルト空港で6人(ブリギッテ、フランク、クラウス、ファリド、ティルマン、ぼく)で待ち合わせをする。20歳のティルマンがとうとう来なかった。嫌な感じ。もしかしたら早いフライトでモスクワに行っただろうとみんなで言いつつ、出発直前に連絡をすべきだったのだろうかと自分を責める。モスクワに着いたが、成田行きのゲートに彼は現れなかった。とてもがっかりする。アエロフロートのおばさんスチュワーデスは語りぐさになっているが、今はぴちぴちした美人ぞろいばかりだ。飛行機もエアバスで、西側の航空会社と変わりない。

 

9月14日(水)

 14日に成田に着いてターミナルに入ると、何とティルマンが立っているではないか。やはり同じ便で来たとのこと。キツネに包まれた感じ。一等で飛んだのかいと冷やかす。

 空港には中学時代の友だちが4人、大船渡の世話人が2人出迎えにきてくれた。すぐ船橋の姉の家に行く。昼ご飯をご馳走になる。茄子、餃子、ちらし、ソーメン、豆腐、ビール。機内で眠っていないので酔っぱらう。午後3時頃に市川市の社会福祉協会に行き、ボランティア保険に「絆・ベルリン」で入る。その後ホームステイ先に行く。夕方6時に居酒屋「ワタミ」で歓迎会が開かれる。15人の大人数。おいしいサンマの焼き魚をたらふく食べる。ベルリンで聞いた話、「今年は放射能でサンマが食べられない。」は、ウソだった。

 夜、鶴さん(中学時代からの友人)の家でドコモの全国無線LANを試す。すぐに繋がる。1月に使った携帯もオーケイで一安心。夜中の3時に目が覚める。

 

9月15日(木)

 6時に起きて、2台の車で7時半に出発。東北高速道を走る。ボランティア活動のためにという証明書を出すと高速料金が無料になる。福島を越えても地震の跡は見えないが、時々修理工事をしていて渋滞。遠野に4時頃着く。全てがのどかな田舎町の風景。

 「遠野まごころネット」に到着。ほぼ満員とのこと。体育館に160名の男,和室に60名ほどの女子が泊まる。厳格なルールを守るように言われる。一人畳一枚のスペースを与えられる。先行隊のマリーナとクリスティーナが出迎えてくれる。さらに同じ日の昼過ぎについたというバティストも顔を出す。すでに2度も遠野に滞在している鶴さんの案内で、すぐ全員で近くの銭湯に車で行く。この銭湯は津波で壊された廃材を燃やして湯を沸かしているそうだ。一風呂浴びた後、市内に戻り、夕ご飯を食べるところを探すが、おいしいとされる居酒屋などは満員で断られ、閑古鳥が鳴いているような一膳メシヤで丼物を食べる。もう9時過ぎなので一日前に「まごころネット」に入った二人はそわそわし始める。明日の朝ご飯をコンビニで買わなくちゃあと言うのだ。というのは、10時消灯で全館の灯りが消されてしまうのだ。それまでに戻っていないといけないというのだ。おばさんをせかして無事に9時15分位に出る。コンビニに寄って買い物をする。

 10時ぴったりに消灯。床が固くて眠れない。所々からいびきと歯ぎしりの合唱が始まる。それでも眠りこんだらしく、2時半に目が覚める。カエルとこうろぎの鳴き声に混じっていびきのカコフォニーが聞こえる。

 

9月(金)

 朝6時に、「起きて下さい」の声が拡声器から流れる。顔を洗い、庭で立ったまま朝ご飯のパンを食べる。7時15分からラジオ体操をする。ヨルンが到着する。7時半にバスに乗り、前もって登録した目的地に向かう。釜石市内に入ると津波の跡が見える。巨人の手で投げ飛ばされたかのような、めちゃくちゃに叩きつぶされた自動車がまだいろんなところに転がっている。釜石の箱崎町に着く。

 釜石の箱崎町には湾があり、そこからなだらかな丘陵地帯がつながっている。家はまったくない。コンクリートの土台だけが残っている。漁業組合のコンクリートのビルが半壊状態で港に立っている。廃校になった中学校の前でバスを降りる。50名ほどのボランティアが参加。隊長が活動内容について話し、さらに注意をした後、10人から20人ほどのグループに分かれ、一列に整列。班長がまた挨拶をする。ちょっと軍隊を想像させる。我々はコンクリートの土台だけが残った敷地をきれいにする作業だ。我々の班には富士通の新入社員が10人ほど参加。この作業の特徴は、11月には敷地の土台は撤去されるそうだ。じゃ何のために撤去するのだと疑問が出るようだが、敷地の持ち主がそれまでにきれいにしておきたいのだそうだ。隊長の説明によれば、これがある意味での心のケアなのだそうだ。果たしてドイツ人から上記の疑問が出されたが、とりあえず作業に励む。からからに乾いたヘドロをスコップでかき出すのだが、埃が舞い上がってやりづらい。それとガラスや瀬戸物のかけらやクギなどは分別する。分別できない物が出てくると、班長にお伺いを立てる。30度位の温度の上に、木陰がまったくないのでとにかく暑い。20分作業をして10分休むリズムで作業をする。12時から1時まで中学校の建物内に戻って昼休み。午後も同じ作業をして2時半に一つの敷地を終了する。敷地の持ち主のおばさんが午後に冷たい飲み物を持ってきて勧めてくれる。朝の集合場所に集まり、帰りのバスに乗る。4時頃に「まごころネット」に戻ってくる。

 すぐに昨日の銭湯に行く。さっぱりしてまごころネットに戻って来る途中で、駅から歩いてくるメンバーのミロ君に出会う。彼は最後ギリギリになって参加を決めた学生なので、彼の到着は非常にうれしかった。ただちに入り口近くの芝生にシートを敷いて夕飯をみんなで食べ始める。するとタクシーが入ってきて、3人の女子学生(アンネマリー、ルイーゼ、イザベル)がさらに到着する。彼らの滞在手続きを済ませる。ゴム長靴がないのが問題だが、なんとか安全靴で勘弁してもらう。おぼろ月夜の下、和気あいあいと話しながら再会を楽しむ。イザベルは歌が得意なので、イタリアの歌を歌う。市川から同行の石井氏も日本の民謡で答える。10時近くになり若者3名を残して固いベッドに入る。これが後で問題を引き起こすことになろうとは。

 夜は場所を変えて、入り口近くに全員寝袋を広げる。蒸し暑い夜だが、入り口の広い扉が開けっ放しだったので、少しは涼しい。それでもクラウスは前夜同様布袋腹を出したまま寝ている。夜の3時半過ぎに地震がある。3から4の余震だ。多くの人が起き出すが、まったく起きない強者もいる。収まったあと、また寝る。何とか眠れる。合わせて5時間位だ。6時前に起き出して、庭をぶらぶらすると、「絆」のメンバーも続々と起き出してくる。寝不足気味の顔だが、意気軒昂だ。

 

9月17日(土)

 7時15分にラジオ体操をして、7時半に行き先別に別れてバスに乗る。今日は陸前高田市に向かう。同市は岩手県内では最大の被害を出したところだ。市内を通ると家は全くない。半壊のビルがぽつんぽつんと立っている。その間には瓦礫や巨人の手で地面に叩き付けられたような車を積み上げた10メートルほどの小山がいくつもある。そこを通り抜けて湾の反対街に達し、今日の作業現場につく。バスの中でとなりに座った製薬会社のモニターをしているという小泉さんも「絆」のグループに入る。今日は道路際の敷地の瓦礫を一カ所に集める作業だ。ガラス、鉄もの、可燃物、石や瀬戸ものの4つに分けて積み上げる。一つの敷地に我々だけのグループなのでやり易い。今日の班長はきさくでよく話をする人だ。登山家でヒマラヤに毎年登っているそうだ。もうリタイヤした人で、趣味の登山ばかりしていては罰が当たるから、毎月「まごころネット」に来てボランティア活動をやっているのだそうだ。70歳ほどの人だが、元気一杯。

 人海戦術を思わせる作業を続ける。我々のグループが引き受けた敷地がきれいになっていくのが見えるので、やり甲斐がある。隣りの敷地で家庭菜園をやっていた年配の方が外国人をみて声をかけてくる。まずドイツのベルリンから来たと自己紹介してから、少しずつ話をしていくと、この方はやはり菜園のある敷地の人で、お孫さん二人と娘さんを亡くして、一人だけになってしまったとのこと。一応仮設住宅に入っているが、やることもないので、元の敷地に来て菜園をやっているそうだ。だけど餌がないらしく、カラスや雀が種を食べてしまうと嘆いていた。チョウチョウでさえも食べるとのこと。昼過ぎに敷地の息子さんが冷たい飲み物を持ってくる。少し話をする。この敷地は道路より少し高くなっているので、津波は来ないだろうと思って海を見ていると、だんだん水が迫って来たので、慌てて逃げてなんとか間に合ったそうだ。その代わり家は完全に壊されてしまった。午後2時半に受け持った敷地がきれいになる。多少の達成感を持って帰宅する。

 小泉さんの車も使えるので、3台で近くの水光園温泉に行く。素晴らしい温泉だが、露天風呂がないのが玉にきず。満喫して帰る。雨が降っていて、何となく急いでいた上に3台の車だったので、人数確認を怠る。宿泊所にかえると、受付の方から「絆」ベルリンのリーダーに来てほしいとのこと。顔を出すと、水光園に一人忘れてきたとのこと。それであなた方は何をしているんだと叱られる。前の晩に3人の若者メンバーが10時消灯時間以降も庭で声高に話していた上に、消した煙草を捨てていた、さらに温泉に行って一人忘れてくるなんて、グループとしてまったく統率が取れていないとも。いわゆる監督不行き届きの咎はこちらにあるので、平謝りに謝る。

 「遠野まごころネット」は個人参加で200人以上もの人が寝泊まりしているので、規律を厳しくしているのは仕方がない。

 

9月18日(日)

 また立ったまま朝食をとっていると、急に怒鳴られた。メンバーの一人が喫煙所から数メートル離れたところでタバコを吸っていたからだ。あなた方は最低のグループだと言われ、大分落ち込む。その後午後からここを出るので、代表の佐藤さんに30分ほどインタビューをする。規律の乱れで他の人に迷惑をおかけしましたと謝ると、聞いていないとのこと。

 今日は作業をしないで遠野祭りを楽しむことにする。夜に相当雨が降ったせいか、とても蒸し暑い。宿泊所からはお祭り本部に数人で歩く。15分ほどの距離だ。本部では舞台で白虎隊を思わせる少年少女が剣の舞いをしている。「絆」グル−プの男子学生が二人御神輿担ぎをする。感動的だった。

 午後の1時半過ぎに大船渡の今野さんが車で迎えにきてくれる。3台で4時頃大船渡の「福祉の里センター」に到着。

 

9月19日(月)

 石井さんが市川に戻る。大船渡市のボランティアセンターで、我々を作業現場に連れて行くバスを1時間待つ。越喜来湾での作業だ。越喜来と書いて、「おきらい」と読む。何でもアイヌ語だそうだ。側溝をきれいにする作業だ。津波によって大量のヘドロと瀬戸物,ガラスの破片がぎっしり詰まっているのを、まずコンクリートのプレートを二人の力持ちの男が持ち上げたあと、スコップでヘドロを土嚢袋に入れる。一人がスコップ、もう一人が袋の口を開けて待っている。半分以上入れると口を締める。10時頃から20分作業、10分休むリズムで12時まで働く。道路の反対側は京都からきたカトリック教会グループがスペイン人のリーダーのもとで作業をする。午後は1時から再開。2時半に作業終了し、ボランティアセンターに戻る。宿に帰るのは4時頃になる。途中のスーパーで夜食と朝食を買う。宿の「福祉の里センター」は快適だ。大きなお風呂が館内にある上に、トイレもウオッシュレット付きだし、部屋は我々グループだけが泊まる部屋で、それに畳が敷いてある。

 夕飯を7時に一緒に食べ始め、食べ終わった後、今日共有すべきトピックや反省点、さらに明日の予定を話す。

 

9月20日(火)

 台風の影響で雨模様。ボランティア活動は中止。11時からバスで大船渡市を一望の元に見渡せる景勝岬に行き、見事な湾の眺めを楽しむ。雨が強くなる。帰りは港の中心街を歩く。大きな残骸の山がいくつもそびえている。みんなで写真を撮りながらゆっくり岸壁付近を歩く。多分町の人が見たら、観光客が津波の跡を写真に撮っているとしか見えないだろうと思うと、ちょっといい感じはしないが、写真も大事なので、そのまま撮らせる。雨脚が強くなり、ずぶ濡れになる。4時半に大船渡市長と会見の約束があるので、急ぐ。大山さんのお姉さんから電話があり、車で迎えに来るとのこと。地獄に仏だった。

 市長との会見はよかった。市長は英語を流暢に話すので、英語で話してもらった。地震及び津波の状況の説明の後、これからの復興の話になる。一応避難所は8月一杯で閉鎖されて、全員仮設住宅に移ったとのこと。仕事がないのが最大の問題とのこと。鉄道の復興に対しては悲観的だった。大船渡までの路線だが、途中の陸前高田市などの復興計画が固まらないうちは、レールをどこに引いていいか分からないので、時間がかかるとのこと。我々の世話役の今野さんから、元々赤字路線だったので、JRは簡単に復興しないだろうとも聞かされた。あるいはしたくないだろうと。

 夕方のミーティングで今日のスケジュールの情報伝播に関して批判が出る。確かにぼくが空模様を見たり、足の確保などの連絡をしたりした上で、右、左と指示を出したので、最後の一人まで指示が伝わらず、フラストレーションが溜まったのだろう。団体行動も1週間になり、フラストレーションが溜まる時期とも重なった。

 ヨルンが東京に戻る。

 

9月21日(水)

 台風15号が来つつあり、朝から雨なので、今日のボランティア活動が取りやめ。但し、4人の女子学生は二人ずつ大船渡と釜石の幼稚園に一日保母さんとして向かう。鶴岡氏が車で二人を釜石まで届ける。残りのメンバーは午前中がプログラムなし。昼から大船渡高校の授業参観に行く。但し、今日の授業は大学の先生方の出張授業。校長先生はとてもリベラルで、いつでも授業に入っていいですとのこと。そのため、教室の前後のドアがまったく開けっ放しになっている。様々なテーマの講義を数分ずつ参観する。

 3時に高校を出て、近くのスーパーに夕飯を買いにいく。帰りはバスに乗る。鶴岡氏が遠野を回って来て、宮崎から参加のサシャ君をつれてくる。ところが、一人でなく、アイルランド人の友人を連れてくる。前もって連絡がなかったので、ちょっと面食らう。これが後で大きな問題になるとは。夕方は強くなる雨風の音を聞きながら夕飯を食べる。幸い台風は夜中に通過。ドイツでは心配したらしいが、宿の「福祉の里」は立派なコンクリート作りなので、まったく影響なし。

 

9月22日(木)

 やっと台風が去り、青空が見える。二日作業を休んだので、みんな張り切って作業に入る。作業場所は3日前の越喜来だが、川の反対側だ。何人かの日本人のボランティアの人も交じって3日前と同じ作業をする。昼ご飯の後、作業を再開し、20分ほど過ぎたころ、副団長のフランクが大きな悲鳴を上げ、左手を押さえている。その間から血が吹き出ている。何人かが駆けつけて、手ぬぐいなどで血が出ているところ押さえる。腕も縛り付ける。親指の先を怪我したらしい。すぐ車に乗せて病院に向かう。地元から参加している看護婦の裕子さんが一緒に付き添ってきてくれる。県立大船渡病院に駆け込む。ところが、受付で歩いてきた患者はすぐ診てもらいないとのこと。救急車で来ればよかったと後悔するが後の祭り。受付でもう一度事情を話したところ、外科の先生が回診中なので、その後にしか診てもらえないとのこと。隣りの陸前高田市まで行くのもいいが、同じことの繰り返しになるかもしれないので、ひたすら待つ。その間にちぎれてしまった指先を持ってきてもらうように電話する。手袋に入った指先を鶴さんが持って来る。看護婦に言って冷やしてもらう。1時間以上待ってからやっと整形外科に行くように指示される。レントゲンを撮り、若い先生がまず診てくれる。その後もう一人の医者、小野寺先生が来て、じっくり診た後で、指の先はちぎれたので、再びくっつくのは難しい。成功確率は40から50%だとのこと。駄目な場合は、骨が出ているので、まず骨を削り、縫い合わせることになるが、その場合は親指が短くなるとのこと。フランクは左利きなのに、よりによって左の親指を怪我するとは。待っている間に、風邪で宿にいたフランクの奥さんのブリギッテが駆けつける。それと事故を引き起こした日本人のボランティの人も謝りに来る。何でも溝に鉄の格子板をはめる際に、隙間があったので、ぴったりあわせるために、蹴飛ばしたのだが、フランクの指が挟まってしまったのだ。きちんと見た上で押していれば問題なかったのだが。

 4時に手術室に入り、小野寺先生が指を縫い合わせる。アシストする医者と麻酔係、二人あるいは3人の看護婦が付く。54分の手術だった。小野寺先生は要所要所で説明してくれ、安心感を与えてくれる。終了後にフランクに手術した指を見せてくれた。大分膨らんでいたが、一応指の形をしている。それから包帯をする。

 現場から付き添ってくれた看護婦の裕子さんは最後まで残ってくれた。

 少し買い物をして6時半過ぎに宿に帰ってみると、学生の数人が夕飯を食べていた。それを見て、腹が立ち、どうして我々を待っていてくれなかったのだと詰問したところ、待っていたがいつ帰って来るか分からなかったのでとの返答。これが7時半過ぎだったら分かるが、我々が病院に行ったのは知っているだろうし、これまで7時頃に夕飯を食べていたので、我々の帰還を待っていなかったのは理解できなかった。アイルランド人の彼が加わってからは、規律がますます悪くなっている感じだ。食事をした後、もう一度話し合いをする。学生たちの英語圏のグループができて、二つに分裂しつつある感じ。

 夜の9時過ぎにビアンカとマークスがベルリンから到着する。

 

9月23日(金)

 朝早く鶴さんが車で出発する。仕事を休んで我々をサポートしてくれた。彼のおかげでどれほど毎日がスムーズにいったことだろうか。片腕がなくなった感じ。

 怪我をしたフランクを残し、全員ボランティア活動に赴く。作業場所はまた越喜来だ。着いてから、彼の妻のブリギッテに怪我をした場所を見せる。
 今度は反対側の側溝からヘドロと瓦礫をかき出す作業だ。みんな少しは緊張して、より気をつけて作業をする。できるだけグループのメンバーとペアを組むようにいう。昼休みに300メートルほど離れた海に行き、壊れた防潮堤の上に座って弁当を食べる。5メートルほどの堤は海の中に崩れ落ちている。説明によると、津波が堤を越えて、戻っていく時に壊れやすいそうだ。この穏やかな海が牙を剥くなんて。海は日頃は生活を支える手段であり、ここに住む人々の世界の中心を形成していたのだろう。それが彼らを破滅に落としたのだ。被災者の一人が海を見ると非常に複雑な心境になると数日前に言っていたのが分かる気がする。大船渡はこの100年で大きな津波を3回経験したそうだ。ある町や村落ではそこの長(おさ)がきっぱりと「平地には家を建てない」というイニシアティブを発揮し、住居は10メートル以上の高台に建てたところもあるそうだ。そのような地域ではほとんど人家の被害はなかったとのこと。ところが、防潮堤があるから大丈夫だと考え、比較的低地に家を建てた人は被害にあったそうだ。また市長が言っていたように、市の再建計画で500年や1000年の被害規模を想定しては、とても財政的にやっていけないとも。だから、100年単位で起きるかもしれない津波の規模を想定して、市の再建計画を立てているそうだ。

 昼休みに近くに住んでいる方が話しかけてきた。町の方ではできるだけ安全にと山の中腹に住宅街を建設する計画を立てているそうだ。それは安全かもしれないが、画一的な住宅街では住むのには適していないとそのおじさんは言っていた。もう少し住民の望みをいかしてほしいとも。

 4時過ぎに宿に帰り、例の居候のことですったもんだする。でも、明日は出ていってくれるとのことで一安心。風呂に入る。この福祉の里センターには大きな風呂があり、毎日みんなで楽しんでいる。

 

9月24日 (土)

 朝早くマリーナが出発する。これから毎日のようにメンバーが少なくなる。フランクの通院があるので、ぼくは宿に残る。医者の話では、今のところ悪くはないが、くっつかどうかは数週間様子を見る必要があるとのこと。忍の一字だ。病院で東京日々の記者が取材に来る。非常に熱心な記者で、一日中付き合うことになる。車で綾里町の大浜海岸で作業をしている他のメンバーを訪ねる。日本人のボランティアも一緒に動いている。聞いてみると、秋田県から来たそうだ。秋田市の社会福祉協議会が一般に募り、観光バスを一台チャーターして、朝5時に出発し、日帰りするとのこと。

 記者は作業中のメンバーを写真に撮ったり、若いメンバーにインタビューしたりする。その後もフランクに熱心に根掘り葉掘り話を聞いている。同記者は以前ヨーロッパに2年間留学した経験があり、我々に親近感を感じているようだ。フクシマが話題になり、ドイツの原発からの撤退について話をすると、日本もそこまで考えないといけないでしょうねと頷く。何でもフクシマの事故が起きた後、原発から撤退すべきだと意見を述べたら、取材団から1か月ほど外されたそうだ。外国人が日本に戻って来る条件として、放射能汚染に関して日本政府の情報公開が外から見て信頼できるようになること、さらにフクシマの冷却装置が機能することの2つの条件が前提になるというと、同感だとのこと。

「宿での夕飯とミーティング」

 宿に帰る途中のスーパーかコンビニで夕飯と朝食の買い物をする。帰ると風呂に入るか、洗濯などをするか、メールのチェックなどをして時間をつぶす。夕方6時半に全員集まって、買ってきた思い思いの夕飯をテーブルに広げて、互いに分け合いながら食べる。何人かはお湯を沸かして、安上がりのインスタントの食品を食べる。食べ終わった後、その日の反省、あるいは気がついたことを話し合う。そして、翌日のスケジュールをぼくが伝える。
 夜の10時の消灯までは自由時間だ。福祉の里センターは規律がゆるやかなので、若者たちは10時以降にもどこかの部屋に集まって、11時過ぎまで話し込んでいる。11時になっても大声で議論しているので、ぼくが叱りにいったこともある。

 例の居候は我々の部屋から出て行ったが、他の部屋で寝泊まりしている。それでも「絆」グル−プには落ち着きが戻ってきたので、安心。

 

9月25日 (日)

 大船渡市綾里大浜湾での側溝作業を続行する。午後2時過ぎにはほぼ全側溝をきれいにする。一緒にトヨタのボランティアセンターのグループと作業をする。ベルリンでトヨタさんの支援も受けているので、話しかけると東京にセンターがあり、みなさん年休を取って、豊田市から参加しているとのこと。

「ボランティアセンターと社会福祉協議会」

 ボランティアセンターは週末でも活動している。特に週末だけ駆けつけつる職業人が多いので、かえってボランティアの人数は多くなる。
 ボランティアセンターの組織を説明しよう。
 ほとんどの場合自治体の社会福祉協議会が行っている。災害が起きると、社会福祉法によりその自治体の社会福祉協議会がボランティアセンターを設ける義務があるのだそうだ。その点遠野は、社会福祉協議会の外にNPOとして「遠野まごころネット」が設置され、大船渡のボランティアセンターに比べて桁違いの大規模な活動を行っている。聞いたところによると、遠野は固い岩盤に上にあり、地震の災害が少ないので、以前から、沿岸がひどく被災した時は救援センターを設置する考えがあったのだそうだ。今回の津波の被害が余りにも甚大だった上に、沿岸地域の自治体では市庁舎も含めて破壊されたところがあったので、遠野にそれらの地域をカバーする独立したボランティアセンターを設置し、活動を開始したとのこと。8月には「遠野まごころネット」はNPOの資格を得て、継続的な活動を行っている。佐藤代表の話では、それでも国からはまったく支援がないとのこと。多くの資金が寄付金、とくに赤十字の寄付金によるとのこと。それでも足りない部分は遠野市の社会福祉協議会の援助を受けているそうだ。

 大船渡のボランティアセンターは午前8時から受付を始める。団体でも個人でも構わない。申し込んで作業先が決まるのを待つ。初めての人はボランティア保険への加入まで面倒見てくれる。ゴム長靴もたくさんおいてあり、足に合うのが借りられる。手袋やマスクもおいてあるので、使っていい。「遠野まごころネット」では保険は自分で加入してこないといけないし、安全ソールの入ったゴム長靴も持参しないといけない。
 大船渡では「遠野まごころネット」同様作業場にはバスで送り迎えしてくれる。違うのは、作業から帰って来ると、センターの人がうがい水を持って、うがいを勧めてくれる。「絆」グル-プの何人かのメンバーは最初飲んでしまったが。ウーロン茶やスポーツドリンクもおいてあり、自由に飲んで構わない。宿は我々が泊まっていた「福祉の里センター」に無料で泊まれる。大きなお風呂がついているしで、200人以上もが数台のシャワーを共同で使う「遠野まごころネット」とは生活環境は大違いだ。ドイツ人メンバーは毎日のお風呂がとても気に入っている。

 午後4時にアンネマリーが大船渡を去る。留学先の大学の授業が月曜日から始まるのだ。夜の9時に広瀬さんが夜行バスで市川に帰る。よく気がついて、かゆいところに手が届くようによく気がつく広瀬さんがいなくなると思うと寂しくなるが、甘えてばかりいられないと自分を叱咤する。

 

9月26日 (月)

 ルイーゼが朝の6時に八戸に向けてバスで出発する。彼女は高校の時に八戸の高校に留学したことがあるので、友だちを訪ねにいくのだ。残りのメンバーは二手に分かれる。今野夫人の勤務している老人ホーム訪問組と通常のボランティア活動組だ。若いメンバーはやはり老人ホームは敬遠する。日本語が達者なミロをグループ・リーダーに任命し、4人を任せる。我々7人は今野さんご夫妻に2台の車でピックアップしてもらう。
 施設は数年前に建てられた建物で、とてもきれいだ。6つの棟に分かれ、それぞれ8人が共同で生活している。ホーム内では20名以上の居住者が集まっているところに案内される。皆さんの前でドイツの歌を歌う。大変喜ばれる。ぼくはフランクと途中抜け出し、近くの県立病院に行く。包帯を交換してもらう。医者は一応良好だが、結果についての判断は時期尚早とのこと。また老人ホームに戻る。昼食に招待され、一緒に食べる。介護の人の話によると、今日は刺激があったせいか、よく食べるとのこと。午後から同じ法人が経営するデイケアの施設を訪問する。山の中腹にあり、大船渡湾を見下ろす素晴らしい景観だ。3月11日は大津波を複雑な気持ちで観察していたそうだ。ドイツの歌を披露する。何人かが手拍子をする。介護の人の音頭で握手をほぼ全員とする。二人ほどバスまで見送りに出て来る。

 

9月27日 (火)

 全員でボランティアセンターにバスで行く。今野さんがセッティングしてくれたように、首都大の学生3人と野元先生が来ている。一緒にボランティア活動をして、夕方には市内の立根(たっこん)公民館で懇親会をすることになっている。作業は同じ茶屋前商店通りの側溝の掃除だ。作業内容は分かっているので、スムーズに進む。休み時間にカメラを手に廻りを歩くと、道路際でサンマの直送便の店があるので、覗いてみる。おじさんが持っていくかいというので、ドイツからグループで来ているから、20、30匹でもいいんですかというと、持ってけという。公民館の人が作業をしていたので、その話をすると、じゃ、今晩は焼きサンマをしようということになる。

「首都大グループ及び立根町の人々との交流」

 4時頃福祉の里センターに戻り、風呂に入る。5時半に立根(たっこん)公民館に行く。首都大のグループ以外に立根町の人たちが日独の交流を深めるためにと集まる。全部で40人位だ。それぞれの代表が挨拶をする。ぼくが全てをこなしてしまうのはよくないので、イザベルを通訳に任命する。うまく訳す。挨拶の後、焼きサンマをつつき、さらにお寿司、フライなどのご馳走が出され、舌鼓を打つ。ご馳走の後は、それぞれのグループが歌を披露し、大いに盛り上がる。岩手日報の記者が取材に来る。

 夜行バスでイザベルが東京に向かう。留学先の大学の授業に出るために。

 

9月28日 (水)

 ボランティア活動の最後の日だ。全員でボランティアセンターにバスで行く。センターの人が3日も同じ作業では退屈するでしょうと他の作業場を振り分けようとしたので、最後の日で新しい作業よりも慣れた方が事故がないだろうからと前日と同じ茶屋前商店通りの側溝の掃除にしてもらう。コンクリートの蓋をジャッキのような工具で開け、詰まっているヘドロやガラスや瀬戸物のかけらなどを一人がスコップでかき出し、もう一人が土嚢袋で受ける。ヘドロが重いので,半分ほど入れて口を締める。道路際に重ねていく。後でトラックで取りに来るのだ。

 2時半に無事に作業が終了し、2週間に亘る「絆」グループのボランティア活動が終わる。フランクの大怪我がなければ、大成功といえるのだが、非常に残念。みんな疲れているらしく、一番若いメンバーのティルマンとぼく以外は風邪を引いたり、肩が痛いとかで医者にかかったりしている。

「大船渡高校との交流」

 午後の3時半に急いで大船渡高校に駆けつける。生徒総会に間に合った。総会の後、「絆」の全員が250人の生徒の前に立ち、ぼく、ミロ、クリスティーナが日本語で挨拶をする。フランクはドイツ語で話し、ぼくが訳す。生徒の盛大な拍手で迎えられる。その後、4つの教室に行き、生徒の有志グループと交流をする。日本語のできないメンバーを二グループに分け、英語での交流だ。日本学の学生を二人ずつにして、生徒たちも二つのグループに分ける。ぼくは4つのグループの間をぐるぐる回る。英語のグループはまず自己紹介をして、趣味や将来の夢などを話題に進む。最初のグループでは一人だけ大分英語のできる生徒がいて、通訳してしまうので、ちょっと困った。二つ目は何とかそれぞれが話している。三つ目の日本語グループは、互いに好きな音楽グループなどを話題にして非常にスムーズに進んでいる。4つ目のグループは3月11日の体験を話し始める。一人の女生徒は翌日家に帰ったら、家は流されていてなくなっていた上に、家族の誰とも会えなかったそうだ。今は一人暮らしをしているとのこと。もう一人の女生徒は家はあったが、食べ物がなくなり、一日お結び一個かチョコ一枚で過ごし、餓死するかと不安におびえていたと涙ながらに語ってくれた。6キロも痩せたそうだ。この大震災をきっかけに、それまでの生活がいかに幸せだったか、また家族との絆がいかに大事だったかを認識したと何人も言っていた。また、一人の男子生徒は、他の人を助けられるように医者になる決心をしたとも。

 

9月29日 (木)

 大船渡を出発する日だが、大船渡中学とフランクの病院訪問がある。病院には結局事故のときボランティとして現場にいて、手際よく処置してくれた看護婦の裕子さんに同行をお願いする。出発前に荷物をまとめ、掃除機を掛ける。10時半に中学校に到着する。メンバーの一人が生物学の教授だったので、中学側は理科の時間を参観に当てる。授業の後、15分ほどグループに分かれて交流をする。

 12時半に市内の大きなスーパーの前に集合する。フランクとブリギッテは相当落ち込んでいる感じ。後で聞いたら、包帯を取り、傷口を見たら、傷がうまくくっついていず、ひどかったそうだ。今野さんご夫妻と急遽かけつけてくれた百尾さんの車3台で盛岡郊外の繋温泉のホテル「大観」に向かう。岡本夫人の心遣いで我々を一泊招待してくれることになっている。ドイツ側10名、日本側のサポーター6人の大人数だ。ホテルは大きな建物で、ドイツ人メンバーはびっくりする。お湯も素晴らしかったが、夕食が出色の出来だった。市川から駆けつけてくれた中学時代からの友人3名、鶴さん、広瀬さん、石井さんが素晴らしい演出をしてくれた。ろうけつ染めの「絆」の手ぬぐいのおみやげ、また合唱の音符準備、ハーモニカの演奏。これぞ日独の「絆」だと実感した。この3人、大山さん、そのお姉さんの今野さんご夫妻のサポートがなかったら、とても2週間うまく過ごせなかっただろう。

 

9月30日 (金)

 朝早く起きて朝風呂に入る。10時の出発にホテルの前に集まる。現地解散なので、ここで散り散りバラバラになる。

 岩手県立大学のリヒター教授から連絡があり、来年若者の日独交流フォーラムを岩手県主催で企画しているので、ぜひ参加してほしいとのこと。「絆」ベルリンもぜひ参加すると伝えた。来年も継続する見込みが強い。大船渡市の皆さんからもぜひ来年も来てほしいと強く言われた。フランクは植樹に情熱を燃やしている。それと来年は大船渡市の中学、高校の生徒をぜひドイツに招待したいので、やることがたくさんある。

 

とりあえず終わり。

(福沢啓臣)