拷問や無情な殺人、爆撃、暴行、強姦や迫害…。恐怖から逃れ故郷から脱出してきた人々。ドイツは現在、シリア、チェチェン、トルコ、アフガニスタン、イラン、イラクをはじめ実に40か国以上の国々からの難民を受け入れている。
バイエルン州のある町に住む筆者が体験した難民たちとの交流体験を報告してもらった。
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それは、5月末だった。全く予期もしない事が起こった。
隣の学校の体育館に100人もの難民が入って来たのだ。それも、ある日突然。
新聞などで知ってはいたが、何時来るとも、男性か女性か、どこの国の人たちか。
頭の中は漠然とした期待と不安でいっぱいだった。
ある日突然、体育館のガラス窓に目隠しの板が張られ、中が見えないようになった。
そうなると好奇心は絶頂に達し、一日に何度も体育館に入る路地を往復した。
夜になると人の声がし始め、ざわめきが段々と大きくなっていった。
そして、その日から、私たちの日常がひっくり返った。
ドイツ人の組織力はすごい。難民家族が入ってくる前に、いわゆる難民協力組のようなものがすでに出来上がっていた。
ただ、そこのトップの世話役が旅に出ていていなかったため、主人に仮の世話役が回ってきた。
ドイツ語の授業のプログラムを作らないといけない。
世話役として主人の名前と電話番号を公表したところ、ドイツ語教師志願の電話がじゃんじゃんとかかってきた。
ひょっとしたら、マンツーマンの授業が出来るのではないかと思ったほどだ。現在も30人以上が登録し、交代で教えている。
難民協力組もメンバー80人を超えた。100人の難民に80人のヘルパーはすごい。
食べることに異常に興味のある私は料理担当を申し出た。あわよくば、各国の料理が食べられるという企みがあったのだ。
それからというもの、ネットで各国の料理を調べ挙げた。そして、次々とお国の料理を作らせていった。
難民は10カ国以上の様々な国から来ていて、多くはアフリカだが、アフガニスタンやコソボアルバニアからの難民も多い。
体育館の簡易仕切りの中で、10何カ国の言語が飛び交う。お互いの共通語は英語かフランス語だが、母国語しかしゃべれない人も沢山いる。
そうなると、必死のジェスチャーで格闘するのだが、伝わらないことが往々にある。最近は目を見れば分かるようになってきた。
18から20歳半ばくらいまでの若い男性ばかり。ほとんどが独身だ。身なりにも気を使っていて、アフリカ人など原色のTシャツなど着ると、まるでモデルのよう。
私はアフリカには一度も行った事がないが、まるでアフリカがここに来たような感じ。
最初は隣に住んでいることを隠していたのだが、ばれるのは時間の問題だった。それからは、やれ病人だの、鍵がなくなっただ の、蚊に刺されただのと難民たちがベルを鳴らしてくる。
夜中の1時にガールフレンドと一緒に泊めて欲しいと言って来た事もあった。もちろん追い返したが。
そのうちに国民性の違いもはっきりしてきた。地味だが正直で信頼できる人たち、明るくて何をしても楽しいがほら吹きの多い人たち・・・・等々。
週末に大きなお祭りがふたつあり、それぞれのお国の料理を作って振舞ってくれるという。
最初のお祭りの学校祭では、ナイジェリアとセネガルのチームが担当することになった。
前日にはアフリカのお店に食材の買出しに。見たことも無い食材を次々とかごに入れていく。
彼らの目はキラキラと光り、まるで母国に帰ったかのようだ。小さな店にはアフリカ人がひしめき合っていた。
私は壁にズラッと掛かっている女性用の長髪のかつらに取り付かれ、不思議な国のアリスのような気分だった。
メインとして鶏肉20kg、魚10kgを調達。
さて、本番の学校祭の日。
成人学校の大きなキッチンを使えることになり、皆を案内した。
ピッカピッカのモダンなキッチンが目に入ると、彼らは入るのを躊躇しているかのように見えた。
入り口で足を止め、全体を見回し、ゆっくりと入ってきた。
さて調理に入ると、ナイジェリアのチームは沢山来た割には、ボスは既に決まっていた。
ポパイのようなその男は一人の助手とてきぱきと調理を進めた。後の男たちは邪魔したくないという感じで椅子に座っておしゃ べりをしていた。
セネガルのチームがいくらたっても来ない。そうか、彼らはイスラム徒で今はラマダン。昼まで寝ている人が多い。
私は焦り始め、一人で大量の玉葱をむき始めた。禅寺の料理係のように無言でむき続けた。全部の玉葱をむき終わると最初の男 がやってきてバトンタッチ。
学校祭は大成功!ナイジェリア料理とセネガル料理がお皿の上で見事にマッチし、ドイツ人も初めてのアフリカ料理に大満足 だった。
お腹がいっぱいになった後は、お国芸の披露。リズム感抜群のアフリカ人はドラムに合わせて切れのよい踊りを披露。
皆、即興で踊っているのだが、私たちがどんなに頑張ってもまねのできない動き方。ただただ見とれてしまった。
学校祭には、その他の国の音楽やダンスも披露された。4時間で世界一周したみたいなマルチカルチャーの一日だった。
もうひとつのお祭りについては後日報告することにして、第一弾は終わり。
( 中瑠久(なるひさ)ふみ ) |