外林秀人さんという方の存在を知ったのは、確か2006年だったと思う。「ベルリン在住の日本人科学者が、半世紀以上の沈黙を経て、ヒロシマでの被爆体験を語り始めた」というニュースはドイツのメディアでも話題となり、私もいくつかの新聞記事を読んでいた。また、トルーマン大統領が原爆投下を決定したと言われるポツダム・バーベルスベルクの邸宅前の広場に「ヒロシマ広場」をつくる活動に外林先生が関わられていることも知った。私は、子供の頃から原爆の問題にはどちらかといえば強い関心を持っていたので、いつか直接お話を伺ってみたいという思いを漠然と抱いていた。
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昨年8月6日の式典で挨拶をする外林先生
両側はアストリッド夫人とポツダム・ヤコブス市長 |
2010年の7月末、日本食レストラン「よしおか」に食事に行った時のこと。店主の吉岡さんと話していて、ふと外林先生の話題になった。先生は毎週土曜日の夕方、奥様と「よしおか」に来られるという。吉岡さんは私がドイツニュースダイジェストに寄稿している記事を毎回読んでくださっており、「一度外林先生にインタビューしてみるといいですよ。よかったらご紹介しましょうか?もうご高齢だし、いつまでお元気でおられるかは誰にもわからないから」と言ってくださった。ちょうどヒロシマ広場の記念碑が除幕したばかりで、原爆投下から65年目の日が目前に迫っていた。私にとって願ってもない機会だった。
8月10日の午後、ヒルトン・ホテルのカフェでゆっくりお話を伺った。まぶたに刻まれた深いしわと時折見せるどこか寂し気な表情が印象的だった。それでいて、(こんなことを言うのは失礼かもしれないが)どこかチャーミングな魅力のある方だった。半世紀以上住んでおられるベルリンの話から始まったのだが、「ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていました」と真顔でおっしゃった時には体に衝撃が走った。50年以上被爆体験を胸の奥に秘めてきた理由、原発のこと、問われる政治家と科学者のモラル、等々。ゆっくりとそして思いを込めて語ってくださった。
(この日のインタビューは
ドイツニュースダイジェストおよび
拙ブログにも掲載)
それから1年数ヶ月という決して長い時間ではなかったものの、外林先生は私に対して随分懇意にしてくださった。時々電話もいただくようになった。2010年8月にターゲスシュピーゲル紙に掲載されたロングインタビューは、「今までドイツのメディアに書いてもらった記事で一番内容がいいので、日本語に訳してもらえないだろうか」と言って、翻訳を依頼してくださった。
ある日、バスの2階席で偶然お会いした時は、「ドイツや他の国でしてきた講演の記録が大分たまってきたので、いつかまとめられないかと思っている。その時は中村さんにもぜひ協力して欲しい」とおっしゃった。ベルリンのフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ学校で中学生ぐらいの子供たちに話をされる時にはご招待くださり、聞きに伺ったこともあった。あの福島第一原発の事故が起きてからは、ドイツの新聞やテレビで先生のお顔を見る機会が増えた。あまり体調がよくない中、各地で講演会を精力的にされていることも聞いていた。
印象に残っているのが、昨年4月初頭、日本のあるメディアに「こういう記事が載っていた」と電話をかけてこられた時のことだった。ドイツの南部の州の総選挙で緑の党が大躍進した直後で、「ドイツの原発は予定より早く廃止されるだろう。だが、選挙の結果が、日本の震災を起爆剤にしてもたらされたものであるように思え、日本人としては複雑な気持ちだ」というような内容の記事だった。正直、最初に私が読んだ時は特に違和感を感じなかった。当時、ドイツメディアのフクシマの報道の仕方は過剰にセンセーショナルな部分があったし、その波に後押しされた形で脱原発を求める声が一気に加速したのも事実だと思ったからだ。しかし、外林先生の捉え方は違っていた。
「どうしてこんな記事を書くのだろう。原発がなくなることのどこが悪いのか。それに、ドイツの人々は日本人に対して心から追悼の気持ちを示してくれているではないか」。
外林先生のこれほど怒った声を聞くのは、この時が最初で最後だった。
先生の核についての考えは一貫していた。「左か右かとか、勝つか負けるかとか、アメリカに責任があるかないかとか、つまり誰がどういう立場かという問題ではない。核兵器も原発も、『人類全体』を考えるとよくない。だから私たちはそれらを早く捨てるべきだ」。これまで先生から伺ってきたお話を集約すると、結局こういうことではないかと思う。
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ヒロシマ・ナガサキ広場の
原爆記念碑の前に立つ外林先生 |
外林先生に最後にお会いしたのは、昨年の8月6日だった。この日、ポツダム市の名誉市民の称号が贈られることになり、ヒロシマ広場での式典に伺った。先生は手術をされた直後で、すっかりお痩せになったことに驚いた。それでも私の顔を見つけると、笑顔を見せて手を差し出してくださった。その時のことが忘れられない。
ポツダム市長も臨席した式典の挨拶で、外林先生は「長崎にも原爆が落とされたのだから、この広場の名称に『ナガサキ』も加えて欲しい」という希望をおっしゃっていた。
12月7日、ポツダム市の市議会は、「ヒロシマ広場」を「ヒロシマ・ナガサキ広場」に改称する決議を賛成多数で可決した。「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の副会長で、外林先生と長く一緒に活動されてこられた福本榮雄さんから、数日前こんなメールをいただいた。
「(外林先生との最後の電話で)広場の名称をヒロシマ・ナガサキ広場と改名することが市議会で決議されましたとお伝えできたことが救いです。念願のベンチが設置されたことも。一度も座っていただくことはできませんでしたが。」
「ベンチ?」と思った。だが、外林先生に最初にインタビューした際の録音を聞き直してみたら、最後の方で確かにこうおっしゃっていた。「ヒロシマ広場にベンチを置いたらどうかと思っているんです。記念碑を前にして、そこに座ってゆっくり考えられるようにね。」
外林秀人先生、短い間でしたが、大切なことをたくさん教えてくださり、どうもありがとうございました。今度ヒロシマ・ナガサキ広場に行く時は、そのベンチに座りながら、先生が残されたメッセージの意味をじっくり考えたいと思います。どうか安らかにお眠りください。