ジュゼッペ・シノーポリ没15年の節目に

六草いちか


 本日は、指揮者ジュゼッペ・シノーポリの命日です。
 今年で没後15年を迎えました。

 シノーポリは、2001年4月20日、ベルリンにある国立オペラ劇場、「ドイツ・オペラ座/Deutsche Oper Berlin」でベルディの歌劇「アイーダ」の指揮の途中に突然倒れ、54歳の若さで急逝しました。

 このオペラは、10年以上も続いたシノーポリとドイツ・オペラ座総監督ゲッツ・フリードリヒとの間の確執が解けた和解のしるしとしての公演であり、事実上、「シノーポリとベルリン市の関係の復活」を意味していたため、ベルリン市民の喜びや今後への期待も大きく、それだけにシノーポリの訃報は大きな悲しみとなりました。


 シノーポリの死去当時、ニュースとしての訃報は流れましたが、それ以上の情報が流れることはありませんでしたが、当時ベルリンに駐在していた邦人男性(筆者名:マーサ・ビークル)が大のクラシックファンで、この公演を鑑賞なさっており、ベルリン生活情報サイト「べるりんねっと789」が当時配信していたオンラインマガジン「BN789」に。「ベルリンで没した偉大なる指揮者、シノーポリ氏の訃報によせて」と題し、その日の様子を詳細にわたりご寄稿くださいました。

 このオンラインマガジンは、現在は終了しており(2001年3月~2005年7月の4年半、延べ48号配信)、マガジンとしては閲覧できませんが、以下のページにて、マーサ・ビークルさんの該当ページだけご覧になれます。

本文はこちら

 

 私は、シノーポリ死去の半年後、講談社の総合雑誌「オブラ」の依頼で、当日の様子を取材しました。
 前述のマーサ・ビークルさんや、シノーポリと個人的な親交もあった音楽家を取材することができ、また、人を介して、倒れ込んできたシノーポリを受け止めた奏者がいると、当時第2ヴァイオリン首席を務めていたイリス・メンツェルさんに面会する機会が得られました。

 シノーポリの死はオケメンバーにとって衝撃以外の何ものでもなく、これまでオケメンバーの誰もが、取材を断って来ていたとのことで、取材をお願いしてから返答を受け取るまで、数日の日時を要しましたが、あの悲痛なできごとから半年が経過し、メンツェルさん自身が冷静に振り返ることができるようになったことや、他のメンバーからも反対意見は出なかったこと、発表媒体がドイツのメディアではないことなどから、取材の許可を頂くに至りました。
 そこでお伺いした当日の様子は壮絶そのものでしたが、音合わせの様子を通して、いかにシノーポリがこの公演に意気込みを見せていたか、また、オケメンバーがどれほどの熱意と信頼感で氏とともに音楽を創り出そうとしていたかが生き生きと伝わってきました。
 そうして寄稿したのが、講談社「オブラ」誌の記事です。

 月刊紙の誌面ですから、現在購読することはできませんが、文章だけは現在、日本ペンクラブの電子文藝館に掲載されています。
 雑誌用の構成をそのまま活字に起こしたので読みにくいと思いますが、上記のイメージ画を参考にしつつ、ご笑覧いただければと存じます。

 ≪本文はこちら:日本ペンクラブの電子文藝館


 シノーポリの音楽について、また氏への個人的な思い出など、よろしければお寄せくださいませ。
 (すでにネット上にページがある場合は、URLを、発表スペースをお持ちでない方は、べるりんねっと789でページをお作りいたしますので、ご連絡ください。 press@berlinnet789.de )


 拙文にも記しておりますが、シノーポリにとってあの公演はフリードリヒへの追悼公演でもあり、個人的に印刷した追悼文をパンフレットに挟ませていたといいます。
 まさか自らがこの世を去ることになるとは思いもしなかったはずですが、シノーポリはその追悼文を、ソポクレスの戯曲「オイディプス王」から引用し、こう締めくくっていました。


Du und diese Stadt . . . das Schicksal sei euch gnädig,
und im Wohlergehen erinnert euch immer mit Freude an mich,
wenn ich tot sein werde.

お前とこの町…運命がお前たちに慈悲深くあらんことを。
そして私が死んだときには、
常に喜びをもって私のことを思い出しておくれ

ジュゼッペ・シノーポリ ✝ 2001・4・20